『透明資産』経営のススメ【透明資産経営のススメ】「人的資本」の時代に、経営者が本当に磨くべきもの――数字で測れない「人の力を引き出す空気」こそ、最大の経営資本である


こんにちは!企業の空気をおカネに変える専門家、透明資産コンサルタントの勝田耕司です。

今回は「人的資本経営」という言葉をテーマに、その本質と、経営者が実践すべき具体的な空気の設計について、国内外の研究・事例を交えながらお伝えします。

― 「人的資本開示」の義務化が突きつける、経営の本質的な問い

2023年3月期から、上場企業に対して「人的資本情報の開示」が義務づけられました。人材育成方針・社内環境整備方針・女性管理職比率・男性育児休業取得率・男女間賃金格差など、これまで「見えなかった」組織の内側の状態を、投資家・社会に向けて公表することが求められるようになったのです。この制度変更は、単なるコンプライアンスの問題ではありません。投資家が企業価値を評価するうえで、財務情報だけではなく「人が育ち、活躍できる組織の状態=空気の質」を重視する時代が、公式に始まったことを意味しています。

経済産業省が2022年に公表した「人材版伊藤レポート2.0」は、この変化の背景をこう説明しています。「持続的な企業価値の向上のためには、人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出す経営が不可欠である。そして、人材の価値を引き出す最大の要因は、組織文化・風土という無形の力にある」と。つまり国家レベルで、「組織の空気こそが最大の経営資本だ」という認識が明文化されたのです。しかし多くの中小企業経営者にとって、この流れはまだ遠い世界の話に感じられているかもしれません。今回のコラムでは、この「人的資本経営」の本質が、実は規模を問わずすべての会社に直結する問題であることを、具体的な事実とともにお伝えします。

― 「エンゲージメント」という名の空気の測定値――世界規模の衝撃データ

米国の調査会社ギャラップ(Gallup, Inc.)は毎年、世界規模で「従業員エンゲージメント調査」を実施しています。2023年版の「State of the Global Workplace」レポートによると、仕事に意欲的に取り組んでいる「エンゲージした従業員」の割合は、世界平均でわずか23%。日本に至っては、調査対象142カ国中なんと139位、わずか5%という衝撃的な数字が示されています。つまり日本の職場では、100人のうち95人が「仕事に本気で向き合っていない」状態にあるというのです。

これは能力の問題でも、個人の怠慢の問題でもありません。「この職場で、本気を出す気になれない空気」が、組織全体に蔓延しているという、空気の問題です。同調査は、エンゲージメントの高低が業績に与える影響も定量化しています。エンゲージメントの高い組織は低い組織と比べて、生産性が18%高く、売上が23%高く、顧客評価スコアが10%高く、離職率は43%低いというデータが示されています。そして最も重要な知見が、「エンゲージメントを最も強く決定する要因は給与水準ではなく、上司・経営者との信頼関係と、仕事の意味への共感という、空気の質だ」という結論です。従業員エンゲージメントは、空気の問題です。そして空気は、設計できます。

― 85億円の無形資本投資が生み出したもの――エーザイの「人的資本と企業価値」研究

日本の製薬大手・エーザイ株式会社は、2022年に画期的な研究成果を発表しました。同社の柳良平CFO(当時)らの研究チームは、エーザイが過去20年以上にわたって投資してきた「人的資本(社員教育・組織文化・エンゲージメント向上施策)」と、同社の時価総額・PBR(株価純資産倍率)との相関関係を統計的に分析し、「人的資本の1単位の投資が、約7年後に時価総額を約○倍に高める」という具体的な係数を算出してみせました。

この研究が金融・経営の世界に与えた衝撃は大きく、ESG投資の評価手法に影響を与えただけでなく、「目に見えない組織の空気への投資が、財務諸表には現れないが確実に企業価値を高めている」という事実を、定量的に証明するものとして高く評価されています。エーザイが人的資本として投資してきたものの核心は、社員一人ひとりが「認知症患者さんとその家族のために」という使命感に共鳴して働ける空気の醸成です。

同社の「hhc(ヒューマン・ヘルスケア)」という経営哲学は、売上目標よりも先に「患者さんの一年を想像する」という行動を社員に求めます。この「使命感に満ちた空気」が、長期にわたるアルツハイマー薬の研究開発を支え続け、巨大な無形資産として企業価値に還元されているのです。人的資本経営の本質は、制度や研修費の投資ではなく、「人の力が最大限に発揮される空気への投資」にあります。

― 稲盛和夫が「アメーバ経営」で証明した、空気の自走力

京セラ株式会社とKDDI株式会社を創業し、経営破綻したJALを再生に導いた稲盛和夫氏は、その経営哲学の中核に「フィロソフィ(哲学)の共有」を置きました。稲盛氏が構築した「アメーバ経営」は、組織を小さな独立採算単位に分割し、各チームのリーダーが経営者感覚を持って自律的に動く仕組みですが、その根幹にあるのは数字の管理ではなく「空気の共有」です。

稲盛氏は著書「アメーバ経営」(2010年、日本経済新聞出版)の中でこう述べています。「いかに素晴らしいシステムや仕組みを導入しても、それを動かす人間の心が正しくなければ、経営はうまくいかない。経営の成否を分けるのは、最終的には人の心であり、その集合体として組織に流れる空気である」と。JAL再建において稲盛氏が最初に着手したのは、コスト削減でも路線の見直しでもありませんでした。

全社員1万5千人に対して「フィロソフィ手帳」を配布し、「なぜJALは存在するのか」「自分たちの仕事の意味は何か」という空気の再構築から始めたのです。その結果、再建開始からわずか2年8ヶ月という異例の速さで、JALは史上最高益を更新して東京証券取引所に再上場を果たしました。空気が変わった組織は、驚くべき速さで業績を取り戻します。稲盛氏の事例は、その最も劇的な証明です。

― ハーバード大学「成人発達研究」が示す、人間の力を引き出す空気の条件

ハーバード大学で80年以上にわたって続けられてきた「成人発達研究(Harvard Study of Adult Development)」は、724名の成人を幼少期から老年期まで追跡し、「人生において最も健康・幸福・生産性を高める要因は何か」を研究した、史上最長の人間研究です。現研究責任者のロバート・ウォールディンガー教授は2023年の著書「グッド・ライフ(The Good Life)」の中で、80年の研究が導き出した結論をこう語っています。

「人が最もよく生き、最もよく働くために必要なのは、富でも名声でも長時間労働でもなかった。良質な人間関係、すなわち自分が大切にされているという実感のある環境だった」と。この知見は、経営に直結します。従業員が職場で「自分はここで大切にされている」「自分の存在が認められている」という実感を持てるかどうか――それを決定するのが、経営者と組織が発している「空気の質」に他なりません。

デロイトトーマツが2023年に実施した「グローバル・ヒューマン・キャピタル・トレンド調査」でも、「従業員が最も重視する職場の条件」の1位は「給与水準」ではなく「組織の目的・価値観との一致感(空気への共鳴)」であり、2位が「信頼できる上司・同僚との関係性(空気の安心感)」でした。80年の科学と最新の調査が、同じ結論に至っています。人が力を発揮するために最も必要なのは、「自分がここにいていい」と感じられる空気です。

― 「空気の設計」が人的資本を最大化する――現場での3つの実践

ここまでお伝えしてきた研究と事例が示すのは、一貫したひとつの事実です。人的資本の価値を最大化する最大の要因は、制度でも報酬でも研修でもなく、「空気の質」である、ということです。では、経営者はどのように空気を設計すればよいか。私がコンサルティングの現場で確認してきた実践的なアプローチを3つお伝えします。まず「経営者自身の言葉で使命を語り続けること」です。エーザイの柳CFOが示したデータが証明するように、「この会社は何のために存在するのか」「自分たちの仕事は誰の人生にどう役立っているのか」を経営者が真摯に、繰り返し語り続けることが、使命感の空気を醸成する最も有効な方法です。

稲盛和夫氏がJAL再建で最初にフィロソフィ手帳を配布したのも、まず空気の源泉となる「言葉」を全社員と共有するためでした。次に「失敗を罰しない空気をつくること」です。ギャラップの調査が示したように、エンゲージメントを下げる最大の要因の一つが「失敗を責める文化」です。経営者自身が自分の失敗を率直に話し、そこから何を学んだかを共有する姿を見せることで、組織に「挑戦が歓迎される空気」が生まれます。これは「甘い職場にする」ことではなく、「本気の挑戦が生まれる土壌をつくる」ことです。

そして「小さな貢献を可視化し、称える習慣をつくること」です。ハーバードの研究が示す「大切にされている実感」は、大きな出来事ではなく、日常の小さな承認の積み重ねから生まれます。朝礼での一言、会議後の感謝のメッセージ、月に一度の個別面談――これらの習慣が、「ここにいていい」という空気の残高を、毎日少しずつ積み上げていきます。

― 「人的資本」という言葉の本質を、空気から理解する

2023年に始まった人的資本開示の義務化は、ある意味で「経営の見えない部分を、社会が評価する時代の幕開け」を告げるものです。しかし私が20年以上のコンサルティング現場で確信していることがあります。それは、「人的資本の開示」よりも遥かに重要なのは、「人的資本の本質的な向上」であり、その向上は必ず「空気の設計」から始まる、ということです。ギャラップのデータが示す「5%のエンゲージメント」という日本の現状は、絶望的な数字ではありません。

逆に言えば、空気を設計することでエンゲージメントを高めた経営者は、95%の組織が手をつけていない競争優位を、今すぐ手に入れられるということです。エーザイは無形の空気への投資が時価総額に結実することを証明しました。稲盛和夫氏は空気の再構築が2年8ヶ月でJALを史上最高益に導くことを証明しました。ハーバードの80年の研究は、人が最も力を発揮するのは「大切にされている空気の中」だと証明しました。あなたの会社の従業員は今日、「ここで本気を出したい」と思っていますか。その答えこそが、あなたの会社の人的資本の現在地です。そして、その答えを変えるのが、「空気の設計」というリーダーシップの本質です。

― 勝田耕司