【透明資産経営のススメ】「また、あそこに頼みたい」はなぜ生まれるのか――顧客の無意識を動かす「空気の設計」と、再選択を生む感情経済学

こんにちは!企業の空気をおカネに変える専門家、透明資産コンサルタントの勝田耕司です。

今回は、多くの経営者が最も切実に望んでいるテーマ――「お客様にリピートしてもらえる会社」に焦点を当てます。同じ商品、同じ価格、同じ立地なのに、なぜか「あそこにまた頼みたい」と思わせる会社と、一度きりで終わってしまう会社の差は、どこにあるのか。その答えを、行動経済学・神経マーケティング・国内外の事例を通じて解き明かしていきます。

― 顧客は「論理」で選ばず、「感情」で選ぶ――ノーベル賞経済学者が証明した不都合な真実

2002年にノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは、著書「ファスト&スロー(Thinking, Fast and Slow)」(2011年)の中で、人間の意思決定には「速い思考(システム1)」と「遅い思考(システム2)」という二つの回路があることを証明しました。注目すべきは、日常的な購買行動の大半は「速い思考(システム1)」、すなわち感情・直感・無意識によって行われているという事実です。「この店に入ると、なんか落ち着く」「この担当者に話を聞いてもらうと、なぜか安心する」「あの会社に頼むと、なんとなくうまくいく気がする」――これらはすべて、論理的な比較検討より遥か前に、脳が「空気」を感知して下した無意識の判断です。

カーネマンはさらに、「ピーク・エンドの法則(Peak-End Rule)」という概念も提唱しています。人はある体験の全体を評価するのではなく、「最も感情が動いた瞬間(ピーク)」と「体験が終わった瞬間(エンド)」の印象だけで、その体験全体を記憶・評価するというものです。たとえば、接客の途中に些細な失敗があったとしても、最後の「お見送りの空気」が温かければ、顧客の記憶にはポジティブな印象が残ります。逆に、サービスの大半が優秀でも、支払い時の対応が事務的で冷たければ、「なんかあそこは感じが悪かった」という記憶が定着します。カーネマンの法則が示すのは、「顧客体験の設計=空気のピークとエンドの設計」であるという、経営にとって極めて実践的な真実です。

― 「NPS(推奨意向)」が測定する、空気のファン化力――ノードストロームとベイン&カンパニーの知見

ベイン&カンパニーのフレデリック・ライクヘルドが2003年にハーバード・ビジネス・レビューで発表した「ネット・プロモーター・スコア(NPS:Net Promoter Score)」は、「あなたはこの企業を友人・知人に薦めたいと思いますか」という一つの質問で顧客ロイヤリティを測定する指標です。ライクヘルドは膨大なデータ分析から、NPSと売上成長率の間に強い相関があることを証明し、「最終的に企業の長期成長を決定するのは、顧客が積極的に口コミをしたくなるほど感動したかどうかだ」と結論づけました。

この「感動」の正体こそが、空気です。NPSの高い企業に共通するのは、顧客が「数字の向こうにある人間として扱われた」という実感を持っていることです。米国高級百貨店ノードストローム(Nordstrom, Inc.)は、NPSが小売業界で常に最上位に位置する企業として知られています。同社の接客哲学の核心は、マニュアルではなく「判断力(Good Judgment)」です。ノードストロームの新入社員ハンドブックはわずか一枚のカードで、そこにはこう書かれています。「あなた自身の良い判断力を使って、すべての状況に対応してください。それ以上のルールはありません」と。

この「自分で考えて最善の空気を届けることを信頼されている」という感覚が、従業員の誇りとなり、その誇りが顧客への接客の空気となって伝わります。ノードストロームの社員が顧客のために他社製品を取り寄せた話、深夜に靴を届けた話など、伝説的なサービス事例は枚挙にいとまがありませんが、これらはすべてマニュアルから生まれたものではなく、「顧客に最善の空気を届けたい」という自発的な意志から生まれたものです。

― アップルストアが「沈黙」で売る理由――神経マーケティングが解き明かす空間の空気

Apple Inc.が世界各地で展開するApple Store(アップルストア)は、単なる製品販売の場ではなく、「空気の設計」の教科書として世界中の小売業者が研究する場所です。アップルストアには、会計レジが存在しません。製品を囲む棚もありません。顧客が製品を自由に手に取り、試し、思う存分体験できる空間だけがあります。元アップル小売部門担当シニアバイスプレジデントのロン・ジョンソンは、アップルストアの設計哲学についてこう語っています。「私たちが設計したのは、店舗ではなく体験の場だ。

顧客が歩いて入った瞬間に感じる空気、製品に触れたときの感触、スタッフとの会話の温度――これらすべてが、アップルというブランドの空気感を体現している」と。神経マーケティングの研究(マーティン・リンドストローム著「ブランドウォッシュ」2011年など)によれば、顧客が店舗に入った瞬間の「最初の3秒」で、その店に対する感情的評価の80%以上が決定されることが示されています。この「最初の3秒の空気」を意識的に設計しているかどうかが、顧客が「また来たい」と感じるかどうかを決定的に左右するのです。

アップルストアのスタッフ(ジーニアス・バー)は、来店目的を聞かずに顧客の「困りごと」を見つけ出すことを役割とし、売上ノルマよりも「この顧客の問題を解決したか」を評価基準とされています。「売ろうとしない空気」が、結果として世界最高水準の坪当たり売上(2019年時点で約5,500ドル/平方フィート)を生み出しているのです。

― 丸井グループが示す「共創の空気」と顧客ロイヤリティの新方程式

日本国内の事例として、丸井グループ株式会社の変革は特筆に値します。かつて「ファッションビル」として知られた丸井は、2015年頃から「モノを売る場所」から「コトと共感を共創する場所」への転換を宣言し、百貨店業界の常識を覆す取り組みを開始しました。その核心は、テナントを「売上を上げてもらう存在」として扱うのではなく、「共に社会に価値を提供するパートナー」として扱うという、関係性の空気の再設計です。

丸井は2019年以降、全店売上の一部をテナント売上ではなく「顧客体験の質」で評価する独自の指標を導入しました。具体的には、来店顧客のNPS(推奨意向スコア)を全テナントで測定し、高スコアのテナントを優遇する仕組みです。その結果、テナント各社の接客の空気が変わりました。「今日いくら売るか」ではなく「今日来てくださったお客様にどんな体験を届けるか」を軸にした接客が広がり、丸井全体のNPSが大幅に改善されました。

同社の青井浩社長は統合報告書の中で、「私たちが積み上げてきた最大の資産は、お客様との間に築かれた共感の空気だ。この空気が、新しいテナントをひきつけ、新しいお客様をひきつけ、持続的な成長を生み出している」と述べています。「共感の空気」を経営の中心に据えた丸井の株価は、百貨店・商業施設業界全体が苦境にある中でも、長期にわたって底堅い推移を示しています。

― 「感情の残高」という概念――クリントン政権元顧問が説いた関係資本の本質

米国の経営コンサルタントで、クリントン政権のビジネス顧問も務めたマイケル・ルボーフは、著書「顧客が熱狂するサービスの秘密(How to Win Customers and Keep Them for Life)」の中で、「感情の銀行口座(Emotional Bank Account)」という概念を提唱しています。これは、経営者やスタッフが顧客との接点のたびに、相手の感情口座に「預け入れ」または「引き出し」を行っているという考え方です。温かな挨拶、名前を覚えて呼びかける、困りごとに先回りして対応する、約束した以上の仕上がりで届ける、、、これらはすべて「預け入れ」です。

逆に、待たせる、事務的に扱う、クレームへの対応が遅い、担当者によって対応の空気が変わる――これらは「引き出し」です。そして重要なのは、「感情の残高がゼロ以下になった瞬間、顧客は去る」という事実です。しかも顧客は、去るときに何も言いません。ただ静かに、次回から選ばれなくなるだけです。米国の消費者調査(Ruby Newell-Legner「Understanding Customers」)によれば、サービスに不満を持つ顧客のうち、実際にクレームを伝えるのはわずか4%に過ぎず、残りの96%は何も言わずに去り、そのうち91%が二度と戻らないというデータが示されています。

つまり、クレームが来ない会社が「空気の問題がない会社」ではないのです。沈黙の顧客こそが、空気の劣化の最大の証拠です。この「見えない離反」を防ぐために必要なのが、日々の接点において意識的に感情の残高を積み上げる「空気の運用」です。

― ロイヤルカナンとシマノが示す「B2B顧客への空気」の経営価値

顧客への空気の設計は、B2C(個人顧客向け)の業態だけでなく、B2B(法人顧客向け)においても同様に、いや時にはそれ以上に重要な経営課題です。フランス発のペットフードブランド「ロイヤルカナン(Royal Canin S.A.S.)」は、動物病院・ブリーダー・ペットショップという専門家チャネルを主軸に販売展開していますが、その強みは製品品質だけではありません。獣医師や専門家に対して「パートナーとして共に動物の健康を守る」という使命感の空気を届け続けることで、圧倒的な指名率と継続取引率を実現しています。

同社は各国で「獣医師向け栄養学教育プログラム」を無償提供し、専門家の成長に貢献することで、「この会社は私たちのことを真剣に考えてくれる」という感情的残高を継続的に積み上げています。この「専門家への敬意と貢献の空気」が、ロイヤルカナンをプレミアムペットフード市場における世界的なリーダーポジションに押し上げています。また、釣具・自転車部品で世界シェアを誇るシマノ株式会社は、エンドユーザーには直接販売を行わないにもかかわらず、世界中のサイクリスト・釣り人から「シマノでないと」という強烈な指名空気を持つブランドです。

その空気の源泉は、完成品メーカーやショップに対して常に「共に市場を育てるパートナー」として向き合う姿勢にあり、技術サポート・教育・共同開発というパートナーへの空気の設計が、エンドユーザーへの信頼となって伝播しています。B2Bにおける「空気の設計」は、顧客企業の従業員・担当者の感情に働きかけるものです。担当者が「この会社と仕事をするのが好きだ」という感覚を持つとき、その会社は競合他社の低価格提案が来ても、容易には乗り換えられません。

― 「また来たい」を生む空気の3つの設計原則

カーネマンのピーク・エンドの法則、ライクヘルドのNPS理論、ノードストロームの判断力経営、丸井の共創モデル、ロイヤルカナンのパートナー空気――これらすべての事例が示す、「また選ばれる会社」の空気設計に共通する原則を3つに整理します。第一の原則は「エンドの空気を徹底設計する」ことです。カーネマンの法則が証明したように、顧客の記憶に最も強く残るのは「体験の終わり方」です。契約後の最初のフォロー電話、納品後のお礼と確認、クレーム解決後の事後連絡――これらの「エンドの空気」が、次の選択を決定します。

多くの会社が「契約前・購入前」の空気に力を入れ、「契約後・購入後」の空気を疎かにします。しかし顧客のロイヤリティは、体験の終わり方で決まります。第二の原則は「名前と文脈を記憶する空気をつくる」ことです。顧客が「数字として扱われた」と感じる瞬間に、感情の残高は大きく引き出されます。逆に、自分の名前を覚えられている、前回の相談内容を担当者が覚えている、自分の好みを理解した提案が来る――これらの「私を知っていてくれる空気」が、感情残高を飛躍的に増やします。

CRM(顧客管理システム)の活用は、この空気を仕組み化するための道具に過ぎません。重要なのは、ツールではなく「顧客のことを本気で覚えようとする空気」が組織に流れているかどうかです。第三の原則は「期待を少しだけ超える空気を習慣にする」ことです。「期待通り」では感情は動きません。感情が動くのは「少しだけ予想を上回った瞬間」です。これは大きなサプライズを演出することではありません。約束した納期より一日早く届ける、見積もりより少し丁寧な仕上がりにする、帰り際に一言「次回はこんなことも一緒にできますね」と未来を示す――これらの「ほんの少しの越え方」が、顧客の脳に「この会社は予想を超えてくれる」という無意識のラベルを貼ります。このラベルが「また頼みたい」の正体です。

― 「また、あそこに頼みたい」の積み重ねが、最強の営業力になる

ライクヘルドがNPSの研究で示した最も重要な発見の一つは、「新規顧客の獲得コストは、既存顧客の維持コストの5倍から7倍かかる」という事実です。そして、顧客が自発的に口コミで新規顧客を連れてきてくれる「プロモーター(推奨者)」の存在こそが、最もコストパフォーマンスの高い営業力であることも証明されています。カーネマンの行動経済学が示すように、顧客は論理で選びません。感情で選びます。そしてその感情を動かすのは、製品スペックでも価格でもなく、接点のたびに感じる「空気」です。

ノードストロームは空気で百貨店業界最高のNPSを獲得し、アップルストアは空気で世界最高の坪売上を実現し、丸井は空気で百貨店不況の中でも成長し、ロイヤルカナンは空気でB2B市場での圧倒的な指名を手にしました。「また、あそこに頼みたい」という一言は、顧客があなたの会社の空気に触れ、感情口座に十分な残高が積み上がったときに、自然と発せられる言葉です。そしてこの一言が積み重なることで、広告費ゼロで新規顧客が増え続け、競合他社が価格で攻めてきても顧客が離れず、社員が「うちの会社のお客様は温かい」という誇りを持てる組織になっていきます。

あなたの会社の顧客は今日、体験の「エンド」でどんな空気に包まれましたか。その一問が、顧客体験設計の出発点です。

― 勝田耕司